熊本県益城町近郊のお葬儀(お通夜・お葬式)に。

子どもを亡くしたこと

1月の終わりに、子どもを亡くしました。そのときのことや、それから今までに考えたことを書き留めてみます。

1月30日の朝、妻が痛みを訴えました。不規則に痛みがあったらしく、これは陣痛の前触れ-前駆陣痛なのではないかと考えました。
翌日が週に一度の定期検診の日だったので、病院に近い妻の実家に帰すことにしました。会社に妻を送ることを伝え、喫茶店でモーニングセットを食べ、実家に妻を降ろして自宅へ戻り、出産後の準備をしていました。
昼を回って、電話が鳴りました。妻からでした。泣いていました。情緒不安定になっているのかと思い、「迎えに行こうか?」と声を掛けました。
妻が話し始めました。昼に出血があったということ。今病院にいるということ。妻の母と一緒だということ。検査を受けたこと。子どもに脈が無く、既に死亡していること、夕方から分娩をすることを聞かされました。
「お母さんだから、頑張って産もうね」と声を掛けました。「お父さんも行くから待っててね」と伝えて電話を切り、私の母に事情を伝えてタクシーに乗り込みました。

病室に入ると、妻は笑顔で私を出迎えました。妻の母が一緒でした。妻の目の周りが腫れていました。お医者さんから、元々の希望通り無痛分娩を行うこと、麻酔を入れること、促進剤を入れること、出産が夜中になるであろうことを聞きました。私は、出産に際して母体に危険がないことを確かめました。そして、元々出産に際し立ち会うことを希望していたので、その通りにすることを確認しました。

日が暮れて、妻は分娩室に移動しました。準備が整ってから妻の母と私は分娩室に入ることができるとの話で待合室にいたのですが、待合室が寒く感じられたのと、新生児室が近く子ども達の泣き声が聞こえるのとで、私はともかく妻の母のことを考え、二人は病室へ戻りました。

私たちが分娩室へ入ることが出来るまで、3時間くらい掛かった気がします。妻は下半身に麻酔が効いている状態でした。陣痛の間隔が遠いので、出産は翌日の朝か、昼に掛かるかもしれないと聞かされ、妻の母には自宅に戻ってもらい、私も出産後にしなければならないであろうことを考えて、産まれる前に起こしてもらえるように看護師さんに伝えて再び病室に戻り、仮眠を取ることにしました。

産まれてから行う手続きや、棺のこと、火葬のことと、その前に何をすることになるかを一通り考えて、上手くまとまらなかったので途中で打ち切り無理矢理眠ろうとした頃に、呼び出しがありました。日付が変わっていました。出てきそうだいうことで、分娩室へ向かい、出産に立ち会いました。午前1時31分、52.5センチ、2888グラム。性別を聞かずにいたのですが、果たして男の子でした。前評判では、母親のお腹が突っ張っていないことや、同じく表情が険しくないことを理由に女の子ではないだろうかとの声が多かったのを思い出しました。産声を聞くことは出来ませんでしたが、ようやく逢えたことを、とても嬉しく思いました。

産まれた子は抱えられ、母の胸の上に降ろされました。妻は子の顔を見て、私に「この子、『やすはる』よね?」と言いました。男の子の名前と女の子の名前と、両方考えていて、そのうちの一つでした。戸籍には残りませんが、名前を付けたことで、親にしてもらえた気がしました。私も彼を抱くことが出来ました。

康春は保育器に移され、病室に戻り、今後のことを夫婦で話し合いました。お腹の中で亡くなってしばらく経過しているため、保冷をしなければならないこと。火葬しなければならないこと、棺が必要になること、役場で手続きをしなければならないことなどを話しました。私は、おそらく妻が退院出来ないだろうと推測していました。なので、私が手続きを行い、自分でお経を勤めて火葬場に行こうと考えており、それを伝えて合意を得ました。夜が明けてからの仕事のため、眠ることにしました。

朝を迎えて、妻の両親が病室に来たため、私は交代して自宅に戻ることにしました。帰宅の前に、死産証書を受け取りました。死因の欄には不明と書かれていました。

今後のことを医師に尋ねると、経過によるが2月2日には外出許可が出せるとのことで、この日に一緒にお勤めをして火葬しようということになりました。

会社で両親にそれまでのことと、これからのことを伝え、役場で手続きを済ませ、自宅に戻り、着替えとカメラ、保冷用のドライアイスを持って病院に向かいました。

友達のお坊さんに頼まれ物をしていたのを思い出しました。電話をして事情を話し、作成が出来ない旨を伝えました。自分でお経を上げて火葬するつもりでいることを話すと、もし良ければ一緒にお勤めさせてくれないかとに言葉をもらいました。父親として何も出来ないことが歯痒く、せめて自分でお経を読もうと考えていたのですが、この言葉が本当にありがたくて言葉に甘えることにしました。

病室では康春の写真を撮りました。とても可愛いのに、一つの表情しか見せてくれないのが悲しくて、二人で涙を流しました。

昼には私の両親も病院に来ました。夕方足りない物を取りに自宅に帰るついでに、「お勤め」について友人のお坊さん達と打ち合わせをしました。

妻とは、亡くなった康春の「いのち」をどのように捉えるか、話し合っていました。浄土真宗では南無阿弥陀仏の念仏をする人が阿弥陀仏の力により極楽浄土に生まれさせてもらえることになっているのですが、康春は念仏したことがありません。なので、還相の菩薩としてこの世に来てお腹の中に10ヶ月居てくれたのだということにしました。とにかく、私たちに命の尊さとか大切さとか儚さとか、色んなものを引っくるめて教えてくれるためにこの世に来てくれたのだということにしました。事実がどうなのかは割とどうでもいいのですが、正常に生まれてこなくて残念だとか、年を重ねる前に死ぬのは可哀想だとかいうストーリーの中だけに身を置くのが嫌で、そう決めました。

打ち合わせでは、そのことを話しました。我ながら我が儘だと思いますが、友人僧侶達は快く応じてくれ、ではどうするのかを話し合いました。

お勤めの内容は、三帰依文、正信偈行譜、白骨の御文章に決まりました。

三帰依文は、仏教全般で用いられることと、私たちの仏前結婚式でも読誦したこと、「人身(にんじん)受け難し」のフレーズを痛感させられたことで決めました。

正信偈には葬儀用のお勤めの仕方もあるのですが、私の中では「葬儀」というよりも「康春のいのちを受けとめる・引き継ぐための法要」のような位置付けだったので、和讃の読み方が難しい葬場勤行ではなく、行譜の読み方にして来てくれた人全員に経本を配り、賛同してくれる人皆で一緒に勤めることにしました。

白骨章には「老少不定のさかいなれば」という一節が出てきます。普段通夜で読まれることが多いのですが、妻の外出が出来ず通夜勤行ができないのと、上の言葉を深く感じたのとで、ここで読んでもらうことにしました。

打ち合わせはそれくらいで、震災一周忌を控えて会議に参加していた浄土真宗青年有志の会などに声を掛けて良いかと訊かれたのを了解して病院へ戻りました。

夜は就寝したものの、途中で目が覚めて夫婦でいろんなことを語り合い、月が明けて2月の朝を迎えました。会社に棺を取りに行き、病院の裏口から搬入して康春をその中に納めました。念のため暖房は入れずにいたのですが、遺体の状態が悪くならないように、この日納棺することに決めていました。



夕方、会場の設営に向かいました。益城会館の本館と東館について、葬儀が入っていない方を使うこと、両方で葬儀が行われている場合は自宅で営むことを事前に決めていました。「身内は後回しだ」という台詞が映画か何かに使われていた気がしますが、葬儀屋も大体そんな感じです。翌日空いていた東館を使うことになりました。

2月2日、妻の外出許可が出て、裏口から外に出ました。病院の看護師さん、スタッフの方々が見送ってくれました。スタッフの皆さんには本当に良くしてもらいました。生きている子と同じように、生きている子の親と同じように扱ってくれたのが、何より嬉しかったことです。

妻の父が運転する車で、妻の母、妻、私、息子の5人で、まず自宅へ向かいました。我が家に帰り、追加の荷物を持って、黒服に着替えて会場へ向かいました。生花のアレンジや、ぬいぐるみを頂きました。心遣いに感謝しています。



会場で、依頼していた納棺師に化粧をしてもらいました。亡くなった後お腹の中でしばらく時間が経過していて、肌の状態が若干悪かったためです。普段から仕事を頼んでいることと、実際私も妻も納棺してもらったことがあるのとで、安心して任せることができました。

納棺が終わり、お勤めをしました。近い親戚と、友人が駆け付けてくれました。僧侶の友人が、数人来るのを想定していたのですが、若坊守さんを合わせて30人近くが来てくれました。読経も声が揃っていて、あのときのお勤めは良かったなあと、今でも思い出します。次第の説明なども友人のお坊さんが担当してくれました。普段と役割が違うのも、なかなか面白くはあります。

無事葬儀というか法要というか今でも正式名称が付いていないのですが、お勤めが終わり、花を手向けて出棺して荼毘に付しました。熊本では珍しく、この日は雪がかなりの勢いで降っていました。康春が産まれてから晴れたり曇ったり雪が降ったり、気のせいでしょうが、彼の代わりに天気が色々な表情を見せてくれているようにも感じられました。

棺を炉の中に納めて、点火のスイッチを押しました。葬儀屋でいることで、父親として出来たことが若干多かったのを、少し嬉しく感じました。

呼び出しが掛かり、収骨室へ入りました。あらかじめ妻にはおそらく灰と判別できず骨はほとんど形が残らないであろうことを伝えていましたが、職員さんの技量でしょう、予想よりも多く拾うことが出来ました。が、なにせ骨が小さいのと、箸が使いづらいのとで難儀しました。骨箸は、木が1本、竹が1本でセットになっており、先が削られていないので、細かいものを拾うのは難しいのです。職員さんが紙製の小さなちり取りのようなものと、筆を渡してくれて、それで集めました。こういうのじゃなくて、もっと違うことで手を掛けさせて欲しかったなあと、心の中でぼやきました。

会場に戻り散会して、妻と、最初より更に軽くなった康春と、自宅に帰りました。妻の調子も悪くなかったので外出許可を外泊許可に切り替えて、我が家で3人で過ごしました。この72時間程で、3ヶ月くらい経過したような気分でした。



その後妻は病院に戻り、無事退院し、1週間程実家で過ごして自宅に帰ってきました。

私は精進として酒を飲まないことにしました。肉食しないのではなくて断酒したのは何となくですが、四十九日はもちませんでした。ダメ父です。

録画していた「ぐるりのこと。」を観ました。この映画の中の、自分たちの子どもを亡くした夫婦は対話します。

「死んで悲しかった?」
「残念やったと思うとるよ…」
「残念?」

少なくとも「残念」ではないなあと思いました。康春が亡くなってなお、姿が見えなくなった悲しみよりも、10ヶ月の間一緒にいてくれた喜びの方が、遙かに大きいです(実際はすごく悲しいんですけど、悲しみに引っ張られないために、こう宣言します)。

ご遺族の許可を得て書きますが、康春の死後、私より若い方の葬儀を担当することがありました。持病を抱えてはおいででしたが、前日まで仕事をなさっていたとのことでした。

喪主であるお父さんに話しかけました。

我が子を亡くすということは、とても悲しいことだと思います。しかしながら、何故悲しいのかを辿ってみると、それはやはり、お子様がこの世に生まれてきて下さったからではないでしょうか。悲しいのは勿論どうしようもなく悲しいのですが、その悲しさに埋もれてしまわないように、生まれてきてくれたことと、これまで一緒にいてくれたことを喜び、彼の命を受け継ぐ式にしませんか。

お父さんは、快く了承してくださいました。

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記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ってしまったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。

(中略)

その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものだと思う。

記憶のつくり方・長田弘 あとがきより

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昔「納棺師のご案内」のページに引用した、この詩が好きです。

葬儀屋の役割って何だろうなあと、考えることがあります。

その役割の一つは、「残念」にしてしまわないことかもしれません。康春の姿はありませんが、今も私たちの道標として、羅針盤として、彼と出会い続ける日々です。彼から受けた影響はとても大きくて、その影響が、そのまま康春なのだと思います。

彼のおかげで人として、葬儀屋としても成長できた気がします。

この世での命尽きて出会う康春に「情けない親父だ」と思われないように、生きたいと思います。

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