ご遺体を棺に納める専門のスタッフです。
私共でも経帷子(白い着物)への着せ替えは行います。スーツ・着物等、故人のお好きだった衣類をお着せしたい場合は納棺師を手配することが出来ます。
故人に洗髪・化粧を施したい場合は納棺師を手配することが出来ます。
棺の中を綺麗に装飾して差し上げたい場合は納棺師を手配することが出来ます。
湯灌(故人をお風呂に入れて差し上げること)をお望みの場合は、納棺師を手配することが出来ます。
納棺には、ご遺族に立ち会って頂くことが出来ます。
納棺師による納棺の料金は、基本セットには含まれません。
以下は納棺の例です。ご遺族の満足度は極めて高いのですが、ご案内差し上げる為の写真が無かったため、2007年3月に私を納棺して頂きました。
雰囲気が伝わればと思います。












2008年に、本木雅弘さんと広末涼子さんの主演で、納棺師を主人公とした映画「おくりびと」が公開されます。2007年9月現在公式webサイトが存在しないようなので、google検索へのリンクを貼っておきます。こちら。
私が納棺されてから2年ほどが過ぎました。当時『納棺師』という言葉は全く普及しておらず、葬儀の打ち合わせで喪主の方やご遺族にお薦めしても「別にそんなの使う必要はない」との言葉が返ってくることが多かったのを覚えています。
もちろん私たちも、白装束を着ていただいて、お棺に入っていただくお手伝いはさせていただくのですが、それを専門とする方の技量に叶うはずもありません。化粧一つにしても、私は自分で化粧をすることすらなく、それから覚えて自分でそのレベルに達するのは難しいと判断しました。
実際ご利用していただくとほぼ100%喜んでいただけるサービスにも関わらず、当初利用者は増えません。どうすれば利用していただけるのか考えた私は、自分で棺に入ることにしました。
当時、写真入りのパンフレットがありませんでした。実際施行した、既にお亡くなりになっている方の写真を勝手に載せるわけにもいきません。イラストでは伝わらない、言葉では伝わらないものがあります。納棺師に電話を掛け、練習台として使ってもらえないかと声を掛けました。お互いにデメリットもないので話はすぐにまとまり、納棺の日が訪れます。
実際に納棺をされてみて思ったのは、想像していたより心地良いということです。半分眠っていたので詳しくは覚えていませんが、少なくとも眠ってしまうくらいには心地良いものでした。実際棺に収める前に化粧を施すことが多いのですが、私の写真は順序が逆になっています。これは納棺師の方が、僕が死化粧まですると思っていなかったためです。目覚めて化粧がなされていないことに私が気付き、納棺師にお願いしてやってもらったのでそうなりました。寝ていた証拠といえるかもしれません。
さて、棺の蓋が閉じられます。窓が開かれて、外から覗き込まれます。割と圧迫感があったような気がします。持ち抱えられもしました。箱の中に入って抱え上げられることなんて大人になってから経験がありません。これも含めて貴重な経験が出来たと思いました。
『おくりびと』の大ヒットと、アカデミー賞受賞のおかげで、納棺師の存在は深く認知されることになりました。これはとても喜ばしいことです。納棺の儀というのは元々遺族が行っていたものです。故人に大きなタライの中に入ってもらい、遺族が洗っていました。湯灌といいます。
今は大半の方が病院で亡くなります。死は私たちのいる普段の世界とは隔絶された【どこか】で行われている気がしてしまいます。納棺師の納棺は、基本的に、遺族立ち会いの下で行われます。厭でなければ顔を拭いたり、納棺師と一緒になって着物を着てもらうことも出来ます。昔長老の指示で行われていた風習が、おそらく我々葬儀屋が取り崩してしまった風習が、現代に蘇ったものでもあります。
ただ綺麗にするだけならば、他の手段もあるのかもしれません。しかし、昔から、山を切り崩すのではなく、棚田を作り、抗えないものに【手入れ】をしながら生きてきた日本人にとっては、同じく抗えない『死』を目前にして出来る【手入れ】として受け入れやすいものではないかと感じています。
死は等しく私たちの眼前に現れます。しかし私たちは、自分だけは死なないと思いながら生きているような気がします。毎日のように死と接している私もおそらくそうです。通夜や葬儀で遺体を前にしていてさえ死を他人事として捉える節があるように感じます。『おくりびと』が、死を意識して生きることの大切さを説いているように思われた方も多いのではないでしょうか。
葬儀の形骸化が叫ばれて久しく、都市部では火葬のみで済まされる方が3割をかぞえ、中身のない言葉で葬儀が括られています。私が最近読んだ本に、以下のような言葉がありました。
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記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ってしまったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
(中略)
その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものだと思う。
記憶のつくり方・長田弘 あとがきより
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葬儀とは、そういうものではないでしょうか。亡くなった人も、確かに私の庭にとどまっている。それが葬儀や、葬儀だけでなく、実は普段死と隣り合わせに生きる私に必要なのではないかと感じるのです。
「良い葬儀だった」と、遺族の方から良く言われます。僕は「葬儀が良かったと言われるよりも、葬儀がご縁となって、良い人生が送れるようになったと言われた方が嬉しいです」なんて、若造のくせに生意気な言葉を返します。大言壮語極まりなく、実力が大きく不足しているのを実感する毎日ですが、心からそう思っています。そして、ちょっと【死】を見つめ【生きる】ということを考えてみて、より良い生き方が出来て、例えば自殺を図るつもりの人が思い直したりなんかしたら嬉しいと、そんなことを考えたりしています。
有限会社 葬祭公社 斎場益城会館
川端康誉
http://batcho.jugem.jp/
遺影写真を年一回作っています。こちら。
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